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読書&執筆ホリックの書評&書き物ブログ。
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深く、滑らかに、そして致死的に。

 

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。
そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。

Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、
そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、
「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。

***

209eb509.jpg










正直自分は村上春樹という作家は好きではなく(登場人物(特に女)の性格が嫌い、
文章表現がいちいち大げさ、キャラの性的嗜好がキモい等の理由で)、
エッセイやノンフィクション以外は手にとっても全部途中で放り出してきたのですが、
本作が出版されたころに母が「あんたの好きそうな内容よ」と教えてくれ、
一作も最後まで読んだことないのに食わず嫌いもよくないなとも思い、
何より誕生日が自分と一緒だという親近感も手伝って(関係ねーよって感じだけど
こういうのって意外と大きい)、初めて最後まで読みきりましたが。。。

結論からいえば、非常に面白かった。
ただ、そこまで圧倒的ベストセラーになるほどではない(今バカ売れしてますが)。
傑作ではない。秀作止まり。
売れているのはやっぱり久々の新作ということと著者のネームバリューだろうな、というのが
結論。

冒頭部でのタクシードライバーの描写が(相変わらず)やたら大げさなのを確認した瞬間
「やっぱ読むのやめよう」と思ったものの、気づけばぐんぐん惹き込まれていて、
下巻の半ばに差し掛かるころにはこの物語がもうすぐ終わってしまうことが
嫌で嫌で仕方なかった。

物語の面白さはもちろん、今までどの作家の小説でも読んだことのない、
もはや〝春樹語〟と名づけてもいいような独特な文章表現が
いたるところに何の違和感もなくさらりと使われていることに感銘を受けもした。
彼が〝自分の文体を確立している作家〟と言われるのも今さらながらに納得。
ただ、登場人物のほとんどが文学的(衒学的?)喋り方をするのはどうかなーと。
主人公の一人・天吾が病院に父親を訪ねていくシーンにおける父親の、および
天吾が電話で医師と会話する際の医師の、哲学的かつ華美な台詞回しには
「こんな粋な表現できる人一般人にいるかい」と思わず突っ込んでしまった。

まあそれはさておき、幾通りにも解釈の可能な本作、敢えて自分の意見を述べるなら、
(以下ネタバレの可能性アリのため隠し文字で)
冒頭で、青豆が知るはずもないクラシックのタイトルと作曲者を知っていたことから、
彼女はあの非常用トンネルを潜るまでもなく、初めから天吾の創作物だったのでは
ないだろうか。
物語の登場人物というのは現実の人間と同じにちゃんと自我を持ってその世界に生きていて、
ただ本人たちが(読者も)それに気づいていないだけで(文中にも
それを示唆する表現が実際出てくるし)、
青豆は天吾という人物によって最高の物語を与えられ、そして
(これはおそらくは天吾にとって)最高の死を迎えた。そして最善の形で天吾の元へ現れた。
青豆のたどった道筋のすべては、天吾が最高の形で彼女を手に入れるための
シナリオに過ぎなかったのでは、そんな風に思えてならない。
(よって本当の青豆はまったく別の場所で別の生き方をしている、もしくは死んでいるかも
しれない)
だとすると天吾はいくら無意識とはいえとんだエゴイストであり、
天吾のために喜んで死んでいく青豆の描写も天吾に都合のいい何とも鼻白むものになるけど、
紙の上やワープロ画面ではなくこの〝現実〟に、
天吾が本人も知らないうちに描き出した物語は、やはり現実の一部であり、
そうするとちゃんと青豆は実在したし、天吾のあずかり知らぬところで幸せを抱えて死んでいった、
そう解釈するよりほかないんだろう、やっぱり。
(たとえ現実と仮想世界の間の障壁のせいで、最後まで二人が会うことはなかったとしても)
ちなみに私としてはラストの〝くうきさなぎ〟は、ベッドの上にちょこんと置いてあるのではなく、
父親の口からリトル・ピープルが出てきて天吾の眼の前で作りあげてほしかった。
死んだ山羊との対比。物語が現実になった瞬間。
そっちのほうが絶対きれいにまとまったと思うのに。

何にせよ、それが創られたフィクションの世界であろうが何であろうが
愛する人間が生み出した物語の主人公として、周りにある何もかもにその人の息遣いが
感じられる世界の中で、生き、そして死んでいくことができたヒロインは
この上なく幸せな人間(敢えて登場人物とは言いません)だと思う。

私もそんな〝200Q年〟を生きたい。
どこかにトンネルはないだろうか。



ちなみにあくまで私見ですが、〝天吾〟と〝青豆〟って、おそらく男性器と女性器とを
それぞれ表してるんじゃないだろうか。その名前から連想する響きから、そして
物語の核を成す男と女という意味合いにおいても。。。考えすぎかな?

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80年代産の道産子。本と書き物が生きる糧。ミステリ作家を目指し中。
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